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百合と女の子についてかんがえる

共感コンテンツとしての百合

「百合」がすきです。女同士の関係を称する、あの百合というジャンル。それなのに、世の中に流通する「百合」の漫画とかアニメとか、あれらのコンテンツの多くを、わたしはあんまりすきになることができないでいる。

百合展2017のサイトには、「百合」のこと、こんなふうに書いてある。

「百合」って何だろう? 未だ漠然としています。女の子が二人いれば百合――恋愛感情に限らず、友情や愛情、敬愛、嫉妬、憎しみといった強い感情がともなえば百合だと個人的には思っていますが、断言は出来ません。それぞれが百合だと思ったものが、百合です。(綾奈ゆにこ

女の子が二人いれば百合。そう、そうだ。きっとそれはそのとおりなのだ。けれど、それならばわたしはいったいどうしてこんなにも、世の中に溢れる「百合」に馴染めずにいるんだろう。わたしが「百合」に求めるものと、世間で盛り上がっている「百合」のありさまとのあいだにある溝は、わたしが百合をすきだと自覚した過去のあのときよりもずっとずっとおおきくなってしまっている。

この、世の中とわたしの嗜好の乖離は、きっとわたしが「百合」に「共感」を求めるから起こるのだろうな、となんとなく思っている。何を隠そう、わたしは自分自身も女だけれど女の子のこともすきになる人間だ。男の人のこともすきになるけど、男の人と一緒にいると「あ~わたしって女なんだな」ってずっと思っているし、女性の役割を引き受けている感じがするので、女の子のことをすきでいるときの、ただわたしという人間のままでいい感じがすきだ。恋愛を題材にしたコンテンツが世の中に溢れているのは、憧れを売るという意味ももちろんあるだろうけど、「共感」を呼びやすいことも大きなポイントなのじゃないのかなあと思っている。だからわたしは、自分がおんなのこをすきになるときの気持ちを、百合の世界に見つけて共感したい。共感をするにはやはり、作品に自己投影ができなければならなくて、そうであるから登場人物の風貌が萌えキャラのものには興味がわかないし、学園内で姉妹契約を結んだことも学園の王子さま的存在の女の子と恋愛したこともない身には、そういう内容のものをすきになることもむずかしい。そして、女の子をごく自然にすきになるわたしとしては、百合において同性をすきになることの苦悩などしないでほしいし、「百合」というジャンルが女同士のジャンルであることをことさらに意識させるようなものも好ましく思えない。我侭だね。だけど、そういうものこそが、わたしが求める百合なのだ。

「身に覚えのある百合」と、そういえばわたしは昔からそう呼んでいた。ここは、そういう「身に覚えのある百合」について言及する場所にするつもり。そうして、わたしがわたしの共感のために書き連ねる百合レビューが、だれかの共感を呼べばそれ以上のことはないなと思って、願わくばそうなってほしいなと考えながらこのブログを始めることにする。