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百合と女の子についてかんがえる

『そういう生き物』(春見朔子著)の百合的感想

「世の中から何かひとつだけ消せるとしたら」という質問に「性別」と答えたことがある。「生まれ変わるなら男?女?」と問われれば「生殖機能のないものに生まれさせてください」と言うし、学生のときはカラオケで椎名林檎のやっつけ仕事を熱唱していた―嗚呼、機械になっちゃいたいのに。

「透明人間になりたいと思っていた。」と述べる「まゆ子」もわたしのそれとおなじような気持ちだったのじゃないだろうか。自身の肉体や性に対する、ゆるやかな絶望。

そういう生き物

そういう生き物

 

この作品を「百合」と括ってよいのかどうかは微妙なところではあるとおもうのだけれど、でもやっぱりこの本は女性ふたりを描いたものにほかならない。(ちなみに、文学作品を百合などという言葉で括ってしまう乱暴さについてはこの際目を瞑ってほしい。)

 けれど「まゆ子」と「千景」の女性性は社会的に見ればどことなく不自然だ。まゆ子は前述のとおり、肉体や性への違和を抱えているし、「女の人で、この人とは死んでも抱き合いたくないと思う相手は少ない」「だけど男の人は大半が無理だ」としながらも「だけどどうしても誰か一人を選んで声をかけるとするなら、私はやっぱり男の人を選ぶのだ」と語る千景は、己の女性性が社会によって形成されているものだと自覚しているように感じられる。生まれたときに男とか女とかそういう性別でカテゴライズされるわたしたちがその枠を外れて、ただの人間――「そういう生き物」として生きてゆくのはむずかしい。

タイトルの「そういう生き物」ということばは諦観と受容のことばだとおもう。社会的な枠から外れた「そういう生き物」として生きてゆくしかないという諦めと、人間という生き物を肉体や性の観念から自由な「そういう生き物」としてみなす可能性と。

千景とまゆ子のふたりのあいだでは、肉体も性別も特別な意味を持たず、それらはただそれそのものとしてしずかに横たわっている。肉体や性別が持つ社会的な意味合いは取り払われ、ふたりはただの「千景」と「まゆ子」でいることを許されている。このふたりは「性別と性から自由でありたい」というわたしの願いを叶えてくれる。(性別と性から自由でありたいという願いは、わたしが百合を読んだり見たりしたいと思う動機のひとつだ。)

ただ、この小説のおもしろいところは、肉体や性を社会的な概念から外そうとしながらも、最後には千景とまゆ子が「婚姻」という社会的装置に組み込まれる可能性を示唆していることだ。「結婚できるじゃん」という央祐のことばによって、肉体や性にそれぞれ意味合いを作り、ふたりにそれらを背負わせていた社会の見え方は一変し、社会は途端にふたりをやさしく迎えはじめる。ふたりが結婚してもいいのだという発見は、人間は結局社会の枠から自由ではいられないのだという軽い絶望にもなりうるが、同時に救いともなり、社会への希望も抱かせることになる。世の中はそんなに無情で辛辣なばかりではないのだ、って。

はたしてふたりは結婚するのだろうか。だけれど、わたしにはふたりの行く末がどうであってもよいと安心していられる。だって、ふたりの関係がどんなかたちになろうとも、ふたりはただの「そういう生き物」として受容されあいながら生きてゆくだろうから。そして、その確信は現実に生きるわたしたちの救いにもなる。